公団住宅(60年代の住宅)
9月 29, 20181960年前後と言えば終戦から15年が経過して、戦後に結婚して生まれたベビーブームマーと呼ばれた子供達も中学生となり、少しは広い家が欲しくなる頃だった。そんな当時の都会のサラリーマンの実態は、元々親の家が都市部にあった場合を除けば民間の狭いアパートや会社の社宅等に住んでいて、何とかこれらから脱出したい、と思っている家庭も多かっただろう。
そんな当時、日本住宅公団が募集した賃貸住宅、所謂団地は鉄筋コンクリートの頑丈な躯体に水洗トイレや内風呂などの文化的生活が出来る設備を備えて、正に庶民にとっては憧れの住宅だった。当時の家賃を調べてみたらば、平均的サラリーマンの月給の4割に設定してあったというから、結構高かった事になる。ここでサラリーマンというのはホワイトカラーの事を表すようで、実際当時は収入の下限が決まっていて、それ以下は公営住宅 (都営、県営、市営など) に入ったから、団地は基本的に高学歴所帯が多かった。
ここで代表的な団地の写真を掲げておく。
団地は階段を中心に左右各1区画の住宅があり写真の4階建てならば階段1つに8区画で、階段が3つならば1棟で24区画となる。団地にはエレベーターが無いから5階が限度だが、実際には4回建てが多かった記憶がある。各階段の入り口には壁に全戸分の郵便受けがあり、写真で左側の階段下のスペースは実際には自転車置き場に使うのが一般的だった。しかしこれに比べると、最近のマンションのエントランスは随分高級になったものだ。なお階段はコンクリート剥き出しで屋根はあるが吹きっ曝しで、事実上屋外と同じだった。
下に代表的な間取り図を示すが、今の標準からすれば狭いとは言え当時の6畳一間のアパートなどからすれば充分な広さだったし、何よりトイレは水洗だし風呂もあった。当時は結構立派な家でも汲み取りトイレが常識だったし、風呂の無い家も多くて、どこの街でも銭湯が近所にあるのが普通だった。何よりもモダーンなのはダイニングキッチンという台所と一体になった食事スペースで、ここにテーブルを置いて椅子に座って食事をするというのが随分と新しい発想だった。
何故なら当時の一般家庭では居間の畳に座布団を敷いて座り、低いちゃぶ台に食事を載せて食べるのが一般的だったからだ。なお間取りは初期には2DKタイプが主流だったが、やがて3DKも作られるようになり、その後賃貸のみならず分譲も始めたために、3LDKタイプも作られるようになった。
しかしこの公団住宅は人気があるために抽選倍率が高く、くじ運が悪いと中々入居出来ないのが実情で、それでも40回くらい落選すると空家に優先的に入れる制度もあった。そんな状況を打破する為だろうか、大規模な団地というのも出来ていった。その最初が現在の西東京市に1959年に建設されたひばりが丘団地で、野球場・テニスコート・市役所出張所・緑地公園・名店街・学校・スーパーマーケットなどが団地敷地内に併設されて、正に街全体が公団住宅というものだった。これが出来た当時、テレビで中継していたのを覚えているが、団地内に公共施設があるのにも驚いたが、それよりも団地内をバスが走っているのにはもっと驚いだ。一つの団地に幾つかの停留所があるのだから、その広さは想像を絶するものだった。
そのひばりが丘団地も今や60年が経過し、建て替えが進んでいるようだ。