わら半紙とガリ版印刷(年金フル世代の子供の頃)

1950年代末から1960年代にかけての小・中学校での印刷物というのはわら半紙という黄色と言うか薄灰色というか、兎に角白くてツルツルした上質紙では無い質の悪い紙に謄写版という簡易印刷機器を使って印刷していた。

わら半紙は見掛けの悪さと共に質も悪くて、消しゴムで消すと周辺がまっ黒けになったり、水滴が付くと立ちどころに膨らんでそこから破れてしまうなど、まあ安いのが取り得見たいな紙だったが、学校で使うのは100%がこのわら半紙だった。

そこに印刷するのが謄写版で、原版は表面に薄く蝋を塗った紙で出来た原紙を細かい鉄やすりの板に載せて、鉛筆のような形をしているが芯が鉄で出来ている鉄筆という用具を使って文字などを書くと、その部分の蝋がヤスリで削れてインクを通すようになることから、紙の上にスクリーンを載せて、その上からインクを付けたローラーでゴロゴロやると印刷が出来る仕組みになっていた。

なんだか言葉に書くと判り辛いが、下の写真を見ればイメージが湧くだろうか。

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この謄写版は学校では必需品であり、家庭への連絡の印刷物などは勿論、テストなども教師が自らこの謄写版で手作りしていた‥‥筈なのだが。

実は23区内の小学校に通っていた頃は、テストは全て業者(教科書の出版社等)の作った教科書準拠とかいうモノで、教師はそれをやらせるだけ、という状況だった。偶々その区がそうだったのか、23区に共通していたのかは判らないが、兎に角その小学校は一部の成金がPTAを牛耳っていて、教師はマルでやる気が無く、まあ酷い学校だった。この事情は7月15日のブログ「今も昔も裏口入学なんて当たり前」を参照願いたい。

しかし話はそれだけでは無い。同級生にどう考えてもそれ程の秀才には見えないのにテストは殆ど全てが万点でダントツの一位だったヤツがいた。こりゃあ何か有るぞと思っていたら、何と自宅の近所の学習塾で近所の小学校に勤めている亭主と出産を機に退職した妻の2人で運営しているところ有った。そして何と教材は業者からその試験を入手してこれを塾の生徒にやらせていたから、そこに通えば既に一回やった試験を学校で解くだけだから満点とって当たり前だった。

その同級生は噂によると日比谷高校の学区域の中学に越境入学したそうだ。この越境入学については8月19日のブログ「公立中学だって良い事もある (前編)」を参照されたい。

 

それで中学は転居により東京都とは言え西東京というか三多摩というか、まあ田舎の中学へ入ったのだが、ここでは業者の出来あいテストを使用する事は無かった。これは中学だからなのか、それとも都心では中学でも試験を手作りはしなかったのか、ハテ?

3 comments

  1. 謄写版でアジビラ作ってた、あの頃の日本の方が希望があったのよ。

    1. 当時の左翼は「ビラ貼り3年、ガリ8年」とか言われていたみたいですよね。

      あれっ、なたりさんって、左翼だったんですか?

  2. 新左翼という言葉をお忘れ? それですって。民青なんかと一緒にしないでね。

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