内田裕也さん死去
3月 20, 2019ロックミュージシャンの内田裕也(79歳)さんが17日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。妻の樹木希林さんが亡くなってから約半年後だった。しかしこの夫婦は43年間も別居生活をしていたのは有名だが、半年後に妻の後を追ったということは、別居していても精神的な繋がりは非常に強かったのだろう。まあ、この辺は我々凡人の感覚では理解出来ないところだ。
裕也さんの音楽活動は1957年頃からバンドボーイを経てバンド活動を始めて、1959年には当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションに所属した。1960年にはかまやつひろしと共にサンダーバードというバンドに参加するが本人の志向とは合わず脱退し、その後幾つかのバンドを渡り歩き、1962年には寺内タケシとブルーンズのヴォーカルとして参加した。また1966年、伝説のビートルズ日本公演では前座として尾藤イサオとツインボーカルでバックはブルーコメッツ、ブルージーンズというメンバーで出演していた。
と、書いても若い世代からすれば何だか判らないだろうが、年金フル世代からすれば初期の日本のロックバンドとして伝説的なかまやつひろし(後にスパイダース)、寺内タケシ(ブルージーンズ、エレキの神様)、そしてブルーコメッツという3大バンドと深く関係していた。その後グループサウンズ時代のトップグループであったタイガースをスカウトしてきたのも裕也さんだった。
このように和製ロックとエレキバンドの創世記に中心的存在だった裕也さんだが、商業主義の事務所と意見が合わず、その後は裏方的役割に徹して行った。そして67年にロックバンドのフラワーズを結成し、その後1970年に一部メンバーを入れ替えてフラワー トラべリン バンドと名称を変更した。このバンドは日本でこそマイナーな存在だったが、海外では高く評価されていて、代表曲「SATORI」はカナダでヒットチャート入りを果たした。しかし1973年には解散してしまった。
ところが2007年にオリジナルメンバーで再始動が発表され、現在に至っていた。ただし裕也さん自身はライブ演奏には加わっていなかった。と言うよりも、以前からどちらかと言えばプロデュースに徹していて、表には出ていなかったようだ。
そのフラワー トラべリン バンドは、個人的には日本で歴代最高のロックバンドだと思っていて、今でも相当な思い入れがある。そこで代表曲SATORIのライブ動画を埋め込んでおく。
ボーカルは、やはり今は亡きジョー中山さんで、もうこのサウンドは生で聴く事は出来ない。そしてギターのようなシタールのような不思議な楽器はシターラというエレキギターにシタールのネックを持つ独特のもので、他のミュージシャンは使っていない。
結局、裕也さんの求めていたサウンドを代表するのがSATORIという曲あったのだろう。他にも良い曲が目白押しだが、その中でも「Hiroshima」や「Make Up」も実に良い。